吉川の歴史
太古、吉川周辺は、深く入り込んだ東京湾の海の底にあり、その海が後退したあとの低地で人々が暮らし始めたのは、古墳時代後期以降のことといわれています。
主に7世紀から8世紀の歌を集めた万葉集の東歌に「鳰(にお)鳥(とり)の葛飾(かつしか)早稲を饗すともその愛しきを外に立てめやも」とあるところから、この地方を含む葛飾地域では、このころ以後から農耕生活が始まっていたことが分かります。
以後、吉川周辺は農村地帯として時代を経ていきますが、中世 (12から16世紀) には、下河辺氏・風早氏などによる荘園支配、寺領による支配、武士による支配など、めまぐるしい支配の変遷がありました。
14世紀後半には、この地方の50戸以上の集落の吉川郷・彦成郷の二郷とその南の50戸に満たない半郷を合わせて「二郷半領」と呼ぶようになり、吉川の古名として現在に伝えられています。
近世 (江戸時代) には、この地方は天領(幕府直轄領)となり、代官所の支配を受けました。この時代に新田開発が推し進められた結果、吉川周辺は有数の水田地帯となり、「早稲米」の産地として発達しました。
また、取れた米を江戸に積み出すため、中川を利用する舟運も発達し、吉川河岸・平沼河岸は物資の集積地として栄えました。
吉川産の優れた縄などのわら工品も、ここから江戸に続々と出荷されるようになったのです。その伝統は、近年まで国技館の土俵だわらづくりに受け継がれていました。